第15節
鍵と沈黙

豪華客船『春風』の船長室を出た白神は、手帳を閉じながら廊下の壁にもたれた。深町は首から下げたカメラを無意識に撫で、その隣に立つ。船長室の重厚な扉が背後で静かに閉まる。廊下には、まだ事件の余韻が冷めやらぬかのような、重い空気が漂っていた。

「ここも、もう一度確認が必要かもしれませんね」と、深町が独り言のように呟いた。
白神は答えない。知的な眼鏡の奥の視線は、まっすぐ廊下の奥を捉えていた。

その先、人気の少ない一角で、二人の人物が対峙していた。一人は清潔な白衣をまとい、髪をきっちりまとめた船医の篠崎麗。もう一人は引き締まった体格に日焼けした顔、無精髭を蓄えた一等航海士の黒岩悟だ。

黒岩は腕を組み、不満の色を浮かべた顔で篠崎を見下ろすように立っていた。その姿勢は、彼が何かを強く主張しているかのようにも、あるいは相手を威圧しているかのようにも見えた。篠崎は黒岩から一歩引いた位置に立ち、腕を組むことなく、ただ静かに彼の言葉を受け止めている。その冷静な表情の奥に、わずかな緊張が読み取れた。

黒岩が低い声で何かを言った。その声は、白神たちのいる場所までは届かない。
篠崎はすぐに答えず、一拍置いてから、静かに言葉を返した。彼女の視線は一度黒岩の顔を捉えたが、すぐに廊下の窓の外へと逸れた。その窓からは、春の嵐に揺れる灰色の海が見える。

黒岩は篠崎の返答に満足しない様子で、再び何かを言いかける。その時、細身のスーツにブランド物のスカーフを巻いた橘美咲が、二人の横を通り過ぎた。彼女は完璧なメイクを施しているが、その横顔に一瞬、硬いものが走った。橘は二人に視線を送ることもなく、通り過ぎようとする。

黒岩の言葉が途切れた。篠崎は橘の背中を、一瞬だけ目で追う。その視線には、何かを探るような色が宿っていた。橘は数歩進んだところで立ち止まり、ゆっくりと振り返った。彼女の視線が、まず篠崎を捉え、次に黒岩へと移る。その視線は、まるで何かを試すかのように二人を往復した。

橘が口を開く。その声は穏やかだが、どこか冷たい響きを持っていた。
「何か、お話しですか?」

黒岩は橘の視線を受け止めるように、わずかに姿勢を正した。
「いや、大したことじゃねえ。船長室の鍵について、篠崎先生と話してただけだ」

篠崎は再び窓の外に視線を戻し、何も言わない。その沈黙が、黒岩の言葉の裏に何かを隠しているかのような印象を与える。

橘は黒岩の言葉にわずかに眉を上げた。
「鍵、ですか。何か問題でも?」

「いや、問題ってわけじゃねえがな。船長がいつも持ち歩いてた合鍵、あれをどこにやったのかって話だ」黒岩は無精髭を撫でながら言った。

「私が知る限り、海堂船長は常に身につけていらっしゃいました」篠崎が静かに答えた。その声には感情がこもっていない。

「だが、遺体からは見つからなかった。あんたは医者として、一番近くにいたはずだ」黒岩は語気を強めた。

篠崎は黒岩の言葉に一瞬、視線を彼に戻したが、すぐにまた窓の外へ逸らした。
「その時は、すでに……」彼女はそこで言葉を区切った。

橘は三人の間に流れる不穏な空気を察したかのように、ふっと息を吐いた。
「船長室の鍵は、非常に厳重に管理されていました。合鍵の場所も、限られた人間しか知りません」

その言葉に、黒岩は橘を睨むように視線を向けた。橘は涼しい顔でその視線を受け止める。
深町はメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。白神は知的な眼鏡の奥の目を細め、三人の間に交錯する視線と、会話の合間に生まれるわずかな沈黙を静かに観察していた。その沈黙は、彼らが語る言葉よりも多くを物語っているかのようだった。

「では、私はこれで」橘はそう言い残し、再び歩き出した。その足取りは完璧なメイクの下に隠された、わずかな焦燥を滲ませていた。

黒岩は橘の背中を見送った後、篠崎へと向き直った。
「篠崎先生、あんたも何か知ってるんじゃねえのか」

篠崎はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。私は、ただ職務を全うしただけです」

白神は、そのやり取りを最後まで見届けた後、深町に小さく頷きかけた。深町はペンを止め、白神の顔を見た。白神は何も言わず、ただ手帳を再び開いた。彼らはその場を離れ、船内図が飾られた壁の前に移動した。

「皆さん、何か隠しているように見えますね」と深町が小声で言った。
白神は手帳に何かを書き込みながら、静かに答えた。
「隠しているのは、彼らだけではないかもしれません」