豪華客船『春風』の士官室は、応接間に転用されていた。白神悠と深町薫は、航海士黒岩悟と向き合っていた。黒岩は引き締まった体格を椅子に深く沈め、日焼けした顔に無精髭を蓄えている。
「昨晩の件で、いくつか確認したいことがあります。」白神はいつもの落ち着いた声で切り出した。「船長が亡くなられたと推定される夜、黒岩一等航海士はどこで何をされていましたか。」
黒岩は腕を組み、天井を見上げた。「俺はブリッジ勤務でしたよ。夜の九時から翌朝の六時まで。嵐の中、航路の監視で手一杯でね。ブリッジから離れるわけにはいかねえ。」
深町は手元のメモ帳にペンを走らせた。「では、その間、船長室に立ち寄ることは?」
「一度だけな。日付が変わる少し前だったか。定期巡回で、船内を一周する際に船長室の前を通った。」黒岩は簡潔に答えた。「電気が点いてたんで、いつものように書類仕事でもしてるんだろうと。特に不審な点はなかった。」
白神は手帳を開き、数ページ先の記載に目をやった。「篠崎船医は、前日の夜九時頃に船長室で船長と面会したと証言しています。その際、船長は部屋の奥にあるアンティークの六分儀を手に取っていた、と。」
黒岩は腕を組み直した。彼の顔に、**一瞬**、影が落ちた。
「六分儀、ですか。ああ、あれですか。船長は時々、ああいう骨董品を眺めて**おられました**からな。夜中までいじっているのは珍しいですが。」
黒岩の声には、わずかながら、形容しがたい響きが混じっていた。普段の彼の粗野な口調とは異なる、どこか距離を置いた、あるいは当惑を滲ませるような響きだった。
深町は白神の顔をちらりと見た。白神は無表情のまま、ただ黒岩の言葉の続きを待っている。
「珍しい、とは?」深町が尋ねた。
「そりゃあ、六分儀なんてのは昼間の航海で使うもんです。夜中に眺めてたって、意味がねえ。趣味で持ってたモンですが、夜中にまで熱中してたなんて聞いたら、そりゃあ…」黒岩はそこで言葉を切った。
「何か、気になることでも?」白神が促した。
黒岩は首を横に振った。「いや、別に。ただ、ちょっと意外だったってだけです。船長はいつもきっちりした方でしたから。夜までああいう趣味に耽るようなことは、あまりなかったはずです。」
白神は再び手帳に目を落とし、何かを書き込んだ。その視線は、黒岩の反応を静かに分析しているようだった。
「なるほど。では、巡回中に船長室から物音を聞いたり、窓から何か見たりということは?」
「いや、何も。嵐の夜で、船全体が揺れてたんで、そんな細かい音は分かりゃしねえ。窓も分厚い二重構造だ。中が見えるわけもなし。」黒岩は断言した。
深町はふと、船長室の窓枠に残されていたという、微かな油の染みと細い擦り傷を思い出した。それがどこかのタイミングで付けられたものだとすれば、黒岩の言う「不審な点はなかった」という証言と、本当に矛盾はないのだろうか。
「他に、船長が六分儀をいじっていたことについて、何かご存知のことはありますか?」白神が重ねて問うた。
黒岩は顎に手をやった。「いや、特に。個人的な趣味の品ですからな。俺がとやかく言う筋合いでもねえ。ただ、あの六分儀は、昔から船長室に飾ってあったはずです。海堂船長がこの船の船長になってからずっと、ですかね。」
白神は黒岩の言葉を静かに受け止めた。彼の表情は依然として変わらない。しかし深町には、白神のわずかに傾いた頭が、言葉の裏側にあるものを探っているように見えた。
「分かりました。貴重な証言、ありがとうございます。」白神はそう言って、黒岩との面会を終結させた。
黒岩は「どうも」とぶっきらぼうに言い残し、椅子から立ち上がった。その背中には、嵐の海の重苦しさがまとわりついているかのようだった。
士官室に二人きりになると、深町はすぐに口を開いた。「白神さん、黒岩さんの話、なんだか引っかかりますね。篠崎船医の証言と、六分儀に対する彼の反応…」
白神は手帳を閉じた。「ええ。まさしく。」
「『おられました』という言葉遣いも、彼にしては丁寧すぎるような…」
「ですね。そして、夜中に六分儀をいじっていたことへの、あの**一瞬**の動揺。」白神は眼鏡のブリッジに指をかけ、静かに言った。「彼は、船長が六分儀を夜間に使うことに、何か特別な意味を見出しているのかもしれません。」
「あるいは、単に船長の意外な一面に驚いただけ、でしょうか?」深町は首を傾げた。
「その可能性も否定できません。しかし、六分儀が凶器である以上、その使用状況に関する証言の食い違いは、些細なものであっても見過ごせません。」
白神は窓の外、荒れる海を眺めた。船は激しい揺れを続けている。
「他の乗員、乗客にも、事件前夜の船長の様子をもう一度詳しく聞く必要がありそうですね。」