第11節
精密機械の不協和音

豪華客船『春風』の船長室には、まだ事件の余韻が冷めやらぬかのように、重苦しい空気が漂っていた。白神悠は、被害者である海堂船長のデスクに向かい、その上を注意深く見つめていた。深町薫は、カメラを首から下げたまま、部屋の隅に立っていた。嵐は夜中に比べれば幾分か収まったものの、船体は依然としてゆっくりとした揺れを続けていた。

「この部屋の主は、几帳面な人物だったようですね」
 白神は、デスクの左端にきっちりと重ねられた書類の束に指先を向けた。
「ええ、航海の記録から個人的な手紙まで、すべて整理されていました」
 深町は手元のメモ帳に目を落としながら答えた。
「ですが、唯一、右端のこの書類だけは、少し乱れていました」
 白神は、被害者が書きかけだったと思しき航路図の隣に置かれた、数枚の薄い紙を指した。それは船のメンテナンススケジュールに関するものだった。

白神は、そのメンテナンススケジュール表を手に取ると、パラパラとページをめくった。深町は、白神が何か決定的な手がかりを見つけるのではないかと身を乗り出したが、白神は淡々とそれを元の場所に戻した。そして、その横に置かれていた、被害者のものと思われる革表紙の手帳に目を向けた。

白神は手帳を手に取ると、パラパラとページを繰った。彼の視線は時折、紙面の一点に留まったが、すぐに次のページへと移った。彼は手帳を脇に置くと、ポケットから取り出した自身の小さなメモ帳を開き、ペンを走らせた。その数文字の書き込みは、手帳の表紙に擦れて残された、古い船のロゴの絵に関するものだった。被害者の手帳の中にあった、乱れた筆跡で書かれた個人的な恨み言のような箇所には、彼は一切触れず、書き込みもしなかった。

「密室の状況について、何か新しい発見はありましたか?」
 深町が、核心に迫るような声で問いかけた。
 白神は深町の質問を耳にしているのかいないのか、デスクの引き出しをもう一度開けた。彼は中を覗き込み、いくつかの小物を指先で軽く触れた後、不意に深町に尋ねた。
「この船長室の暖房は、通常何度に設定されていましたか?」

深町は、白神の質問の意図を測りかねた。密室の謎を解く上で、暖房の設定がどう関係するのか、すぐには結びつかなかった。
「ええと、確か、船医の篠崎先生が、船長の健康状態を考慮して、常に二十四度を保つよう指示していたと……。それが何か?」
 深町は困惑した表情を隠そうともしなかった。

白神は質問を終えると、デスクから一歩後ずさり、窓の方へ視線を向けた。彼は窓枠に指を這わせ、微かな油の染みと細い擦り傷に触れた。しかし、その動作は一瞬で、すぐに部屋の中央、被害者が倒れていた位置へと目を戻した。

「暖房、ですか……」
 深町は、白神が窓の傷に気を取られたかと思えば、すぐに暖炉の灰の中に何かを見つけようとしているように見え、思考の軌跡を追うのに苦労した。船長室の暖炉には、昨夜の灰がそのまま残されており、その中には不自然に溶けた金属片が混じっているのを、深町も確認していた。白神は暖炉に近づき、その内部をじっと見つめている。

「船長は、規則正しい生活を送っていたのでしょうか?」
 白神は、暖炉から顔を上げ、再びデスクの方へ目を向けた。彼の視線は、デスクの隅に置かれた懐中時計に一度だけ留まった。それは実際の時刻より十五分進んでいた。
「それは、乗組員なら誰もが知るところです。日の出と共に起き、日没と共に休む。まるで精密機械のような方でした」
 深町は答えた。しかし、白神の質問が、なぜ密室事件の捜査において重要なのか、深町には依然として理解できなかった。

「精密機械、ですか」
 白神は口元に薄く笑みを浮かべた。その表情は、深町には何かを悟ったようにも、あるいは全く別のことを考えているようにも見えた。彼は再びデスクに向き直ると、被害者の手帳をもう一度手に取った。今度はページを繰るのではなく、その革表紙の感触を確かめるように、ゆっくりと指でなぞった。

「深町さん」
 白神は手帳を閉じ、深町に差し出した。
「この手帳の筆跡について、鑑識に詳しく調べてもらえますか。特に、特定のページに書かれた、乱れた文字の部分を」
 彼の言葉は、先ほど彼自身が目もくれなかったはずの、恨み言めいた箇所を指しているように聞こえた。深町は訝しみながらも、手帳を受け取った。
「そして、もう一つ。この船の航海日誌を、過去半年分、全て入手してください」
 白神はそう言い残すと、船長室のドアへと向かった。深町は、白神の唐突な指示に、ただ頷くしかなかった。彼の頭の中では、船長の精密機械のような生活と、暖房の設定、そして航海日誌という、一見バラバラな情報が、不協和音を奏でていた。